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April 07, 2013

ルーツをたどる。

年齢を重ねてくると、「自分とはいったい何者なのか」という疑問が、自分のルーツをたどる動機になったりするものらしい。私の祖父も生前、寺や役所で過去帳を調べていたようだし。

しかし、もっと壮大なルーツをたどれるのがこれ。

The Genographic Project (2.0Beta) by National Geographic

数年前、National GeographicとIBMが、東アフリカで誕生した人類という種がどのように世界中に広がっていったかを調べるプロジェクトをやってました。東アフリカから移動を始めた人類は、いくつもの分岐を経て世界中に散っていったわけですが、その途上で遺伝子に刻まれていった「マーカー」を追跡すれば、東アフリカから始まる人類の壮大な旅「Great Journey」を遡れる。世界中のいろんな民族の遺伝子を集めて、データベースを作って、地域ごとのマーカーを調べ、その発生頻度と地域の関係をマッピングすれば、全世界に人類が拡散していった様子を再現できる。それを実際にやってみようとしていたのが、The Genographic Projectでした。

そして、ある程度のデータベースができたので、今度は希望する人がこのプロジェクトに参加できるようにしたのが、The Genographic Project (Beta2.0)。キットを取り寄せると、綿棒みたいなプラスチックの棒と、それを収める小さい試験管みたいな容器が送られてくるので、その綿棒状のもので頬の内側を擦って容器に入れて送り返すと、2ヶ月くらいで分析の結果がオンラインで見れるようになります。

自分は、東アフリカからどのルートを経て来たグループに近い遺伝子を持っているのか。もちろん祖先たちはグループ間でも混交しているわけだし、一本のルートが示されるわけじゃないですが、大まかなルートやそこを通った時期、自分と近い遺伝子を持つ人々の分布などが分かりますよ。

また、人類が誕生した頃は、現世人類の他に少なくともあと2種の人類、ネアンデルタール人とデニソワ人がまだ生きていてホモ・サピエンスと混血していたので、今の自分の中にどれくらいネアンデルタール由来のゲノムがあるのか、なんていうことも分かる。(ちなみに、世界に拡散せずアフリカにずっと残ったと考えられる黒人のグループにはネアンデルタール由来のゲノムは見つからないらしい。)

たぶん、日本人だったらみんな似たような結果が出るような気もしますが、人類という種の歴史の中で自分が今どこにいるのかを知るのは、ちょっとロマンチックじゃないですか。

ということで、既に50万人以上の遺伝子情報を集めたこのプロジェクトに参加してみましたよ。



私の場合は、日本人よりも中国人、それも中国南部の人々と近い遺伝情報を持っているらしいです。

なお、キットは199.95ドル、キットには固有番号がついていて、その番号で管理されるので、匿名で分析してもらえます。要英語。

October 23, 2011

「職業に貴賤はない」の例外。


職業に貴賤はないという。名目はそうじゃないとただでさえつらい仕事で心が折れそうな人がくさっちゃうので、そう言わざるを得ないと思う。でも、尊い職業っていうのはあると思うんですよね。ひとつだけ例外的に尊い職業。

以下は、私の個人的な信条であって、正しいとか間違いとかいう話じゃないですので、気に入らない人は適当に無視してくれればと。

*   *   *

高校生の頃からぼんやり考えているんですけど、この世で一番尊い、貴賤でいえば「貴」の方の職業は科学者だと思うのです。それも応用科学じゃなくて、純粋科学、ハードサイエンスに携わる人々。

人間って、他の動物と違う頭脳という器官を持つ種として発生して以来、ずっと「我々は何者?」「この世界って何?」っていう究極の疑問を抱き続けてきたわけで、科学者っていうのは、その疑問に真っ正面から望んでいる人たちでしょう? 人とは何か、人類とは何か、生命とは何か、世界とは何か、という本質的な疑問に挑み続けてる。

社会っていうのは、私に言わせれば、そんな科学の営みを支えるためにあると言ってもいいくらいです。世界の優秀な才能と、少なくない資金を投入して人類の究極の疑問に望むためには、豊かで安定した社会が必要です。究極の疑問に臨む、選ばれた人々の尊い営みを支えるために、あらゆる社会の営みが必要とされている、そういうことなんじゃないかと。

こんな話をしていると、触れざるを得ない話題は宗教の話だと思いますが、私は、宗教は、科学が究極の問いに挑戦し続けている間、普通の人々が心穏やかに秩序ある社会生活を送るための仕組みじゃないかと思うのです。

星空を眺めたり、人の死に接したり、普通に社会生活を送っていても「我々は何者?」「この世界って何?」っていう疑問はときどき頭をもたげてくる。そして解けない疑問に心が乱されることもある。宗教はそんなときに、心の平安を得るための仕組みじゃないか? 宗教には社会倫理や、芸術、文学などを生み出す力もあるけれど、根っこのところは、答えのない理不尽な世界に生きて行く人々の、揺れる気持ちを抑えるのがその機能なんじゃない?

*   *   *

「科学 宗教」というキーワードでAmazonで検索したら和書だけでも1800冊以上ある。ここで私がちらっと書いてどうこうっていうレベルの話じゃないのは分かってる。

ただ、純粋科学のプロジェクトには可能な限り予算を割き、そこに世界で最も優れた才能の人々に従事してもらうのは人類の人類としてのライフワークであり、その最先端を行く科学者は「貴」の仕事をしている人々と看做してもいいだろうと思うのです。

*   *   *

そんな私は、10年以上も前ですが、物理学研究科で原子核物理を修了。でも、それ以上の研究生活を送るだけの才能が自分にはないことをそのとき自覚しましたよ。で、今、純粋科学とはおよそ関係のない仕事をしています。しかし、みんなが社会に参加してそれぞれの才能で社会をもっと豊かにしていくべき、そしてその中でも特別に才能に恵まれた人は純粋科学の世界に挑戦してほしい、そんなことを考えながら、明日も仕事に出かけるのです。

April 01, 2011

「絶対に」安全、なんてないのさ。

「安全なのかそうじゃないのかはっきりしろ」という問いには答え難いですよ。なぜなら、確率・統計的事象に対して、「絶対に」安全ということはないですから。言い切らないのが科学的には正しい態度です。

日本で車に乗ってたら走行距離数百万キロで1件というくらいの確率で交通死亡事故に遭遇するし、こんにゃくゼリーで命を落とす人もいる。だから、車もこんにゃくゼリーも「絶対に」安全とは言い切るわけにはいかない。結局、公式には「大方の人が安全と看做す水準を満たしています」というような持って回った言い方にならざるをえないし、それが科学的に正確な答え方だと思うんです。

ところがそれでは納得しない人が少なくない。「安全なのかそうじゃないのかはっきりしろ」という質問に答える側は、「判断」を示すよう迫られます。

しかしその「判断」は人によって異なるもの。あなたは安全と思うが私は安全とは思わないかもしれない。「判断」は主観的なものなのです。たとえ事故の確率が十分低くても、こんにゃくゼリーで我が子を失った親はこんにゃくゼリーを安全な食べ物とは看做さないでしょう。

さらに悩ましいのは、「安全」か「そうじゃない」かの二択でしかモノゴトを見ない人にとっては、往々にして「安全」といえばゼロリスク、100%の安全を意味していることですよ。「安全なのかそうじゃないのかはっきりしろ」という質問に「安全」と断言してしまうと、そういう二択の人たちは「事故が起きているのに『安全』とはなにごとか。虚偽だ。」と責めるのです。

といって、「大方の人が安全と看做す水準を満たしています」という言い方をすれば、二択の人たちは、「不正確だ」とか、「ということは危険も残っているのだな。そんなものを認めるとはなにごとか。」とまた責める。

ゼロリスクを求めていては何もできないのです。車にも乗れないし、包丁も使えない。こんにゃくゼリーも食べられないし、それこそ外を歩いていて隕石に当たる確率だってゼロではない。「安全」か「そうじゃない」かの二択ではなくで、危険度を評価することが求められるんです。その上で判断するリテラシーが必要なんですよね。

とはいえ、昨今話題の放射線被曝の危険性については、内容が高度に専門的だし、体感的に理解できないし、自分で「判断」するようを求められても困るという人が多いだろうし、「安全なのかそうじゃないのかはっきりしろ」と言いたくなる気持ちも分からなくもない。だからこそ「その数字が何を意味するのか。」ということを丁寧に解説するコミュニケーションが必要になると思うのですが、マスコミも二択の人と一緒になっちゃって騒いでる場面も見かけてしまう。

それで人々は、不必要に怖がったり、過剰に安心したり、果ては情報隠蔽や陰謀論に振り回されたり。悩ましいですね。

*   *   *

うだうだと書きましたが、要は「安全なのかそうじゃないのかはっきりしろ」と訊かれる側にはなりたくないなぁ、というのが正直な感想で、今まさにそういう質問に晒されている人たちには同情を覚えるのです。

August 21, 2010

人間に限りなく近いヒューマノイド

古典的な話題。

人工知能はどこまで人間に近づけるか。ヒューマノイドは作れるのか。

どこまでハードウェアが精緻になっても、どこまで天才的なコードが組み込まれても、最終的には人間とは同じにならない。たとえ「経験」や「記憶」をデータとして準備してシステムに組み込んでも、人間だけが持つ、不合理なノイズのようなものが、人工的には再現できないコードのかすかなもつれのようなものが「意識」を生み出しており、完全な人間にはならない。

というのは、映画「攻殻機動隊」シリーズで押井守氏が提示しているモデル。その「人間にしかないノイズのようなもの」を、「ゴースト」と呼び、本当の人間の「ゴースト」をシステムに組み込むことをめぐる物語が展開される。「ゴースト」を得たシステムは意識を持ち、それがネットワークの中に息づくのかも、というお話。

いや、「ゴースト」なんて関係なくて、与えられた外部からの刺激に生身の人間が示す反応を悉く模倣するシステムがあったら、それはもはや人間とは区別がつかないではないか。それが意識を持つ持たないに関わらず、生身の人間が示す反応と同じ反応を示すのであれば、傍目にはそのシステムは人間とどう違うというのか。

というのは、映画「ブレードランナー」で登場する「レプリカント」呼ばれたヒューマノイドみたいな存在。機械なんだけど、究極まで人間を模倣するので、人間とレプリカントを区別するのは容易じゃない、という設定だった(ような気がする)。


思うに、高度に可塑性のある(たぶん有機的な)人工知能を備えたシステムがあって、それを実際に「育てて」みたら、本格的に人間に近い人工知能を作ることができるんじゃないだろうか。押井守氏の提案するような「ゴースト」を収容できるシステムで、かつそれに成長が可能であったら、そのシステムをあたかも子どものように育てていけば、完全な人工知能になり得るのではないか。だれかボランティアを募って、システムを養子にしてもらうの。そのシステムを収容するハードウェア—身体ーにどんな形を与えるのかも思案のしどころになるだろうけど、とにかく、赤ちゃんのシステムを普通の赤ちゃんと同じように扱って、何年もかけて育ててみたら、それはもう人間の意識と同じものを宿すかもしれない。

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と、ここまでぼんやり夢想して、気付いた。外部刺激を記憶し経験を積むせること、そして成長させることが人間と遜色ないヒューマノイドを作る方法だとしたら、そのヒューマノイドは死を意識するのか?

もしかして、人間が人間であること、どこまで精緻に作られても機械であるところの人工知能と人間が同じでないことの根拠は、人間が有限の時間を意識していることなのではないだろうか?

スピルバーグの映画「A.I.」で登場する子ども型の愛玩ロボットは、いつまでも子どものままだったね。でも、経験を積み、記憶を増やしていくことができる。昔を思い出したり、懐かしんだりする「感情」を持つ。そんな愛玩ロボットは、長く可愛がっていたらどうなるんだろうか? あの映画では愛玩ロボットは8歳だか10歳だかの男の子の形状をしていたけど、そんなロボットを10年、20年と可愛がったらどうなるのだろうか。8歳の子どものくせに、20年の人生経験を持つ状態というのはあり得るのだろうか。あの映画では、愛玩ロボットは経験を積み、記憶を蓄えていくことができるように見えたけど、そうだとしたら、成長してしまうのではないか。大人になってしまうのではないか。経験を積み、記憶を蓄え、知識を得ていくのに成長しない、という設定が可能なのだろうか。残念ながら「A.I.」では、そんなところまで描いてはいなかったですね。

「銀河鉄道999」の主人公・鉄郎は、永遠の命を可能にする機械の体を手に入れるため銀河を旅する。しかし、機械の体をタダでくれる星に到着したところで、機械の体を手に入れることを止める決断する。生きていることは、有限の時間を意識すること、永遠の命を可能にする機械の体を手に入れてしまうと、それはもはや生きていることにはならないのではないか、と考えた(んじゃないかと思う。原作者の松本零士さんの考え、なわけだけど。)。

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人間に限りなく近いヒューマノイドとは、成長し、いすれ死んでしまうシステム、という定義はどうだろうか。

しかし、これってなんだか「生きている」ということはどういうことか、という定義に近いよね。
要は、人間に限りなく近いヒューマノイドとは、人工の生き物、人工生命体である、と言ってるに近いな。

仏陀は、「生」「病」「老」「死」を誰も決して逃れることのできない四つの苦しみとして挙げた。命あるものが絶対に避けられない現実。ということは、逆に言えば、この四苦を逃れているものは、命がないものとも言える。

完全なヒューマノイドは、人工の生き物であるとすれば、このヒューマノイドは四苦を実感するのだろうか。


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ぼやぼや考えるだけで、なんの結論も出ていないんだけど、人工知能の研究が認知科学や心理学、哲学と切り離せない関係にあるのは分かったよ。